覚え書き: 人生の価値について

ぼくがいなくて困る人なんかいない、とも毎朝思う
僕はゴッホじゃやなんだ やっぱりゴッホじゃやなんだ
ゴッホ / ドレスコーズ より

小学生の頃、僕は歴史の教科書に出てくる偉人がなぜ「えらい」のかがよくわからなかった。

当時の僕はシンプルに、死んだ後に名前が長く残るのはきっとそれ自体が価値あることなのだろうと判断した。

少なくとも善人でなくとも残れば勝ちに見えたので、彼らのやったことはどうでも良かった。

そういう疑問に当たるうちに、いつしか僕は、人生の価値は死んだ後に何年名前が残るかで決まるという考えを持つようになった。

死後 100 年名前が残った人なら 1 年で忘れられた人の100倍の価値を持つし、古代ギリシャの偉人なら2500倍だ。もしかしたら流石に正比例ではないかもしれない(だんだん増え方が緩やかになるのかも)が、ともかく死後に残った年数こそがパラメータだという考えになった。

実際、勉強をするのも、スポーツや芸術で成果を出すのも、およそ人間の努力は死後に残る年数を最大化するためのものだろうと考えるようになった。他の人もだいたいそういう目的で動いているのだろうと思っていたが、当然すぐにそんなことはないと気づいた。

とはいえ、人間やっぱり死んだら終わりなのだから、死んだ後に残った長さが最終審判になるというのは自然な尺度に思えた。たとえどんなに惨めな人生でも、死んだ後に数十年でも名前が残ればある意味「勝ち」というのはわかりやすくて好きでもあった。遅くとも中学生の頃にはぼんやりこういう発想があったと思う(ここまで考えてはいなかったにせよ)


時間による価値 

芸術品の価値は客観的に測ることができない」と言われることがある。

強いて言えば「時の試練」、つまり「どれだけ長く歴史に残ったか」が唯一の価値基準ということになる。これと同じことが人間にも言えないだろうか。

もちろん、ある作品が長く残っていることだけで判断するのは危険であり、個々人が審美眼を持って評価するのは大切なことだ。とはいえ、当の審美眼そのものは結局時の試練を得た作品から学ばれるのだから、長く残っていくことで価値の基準になると言っても相違ないだろう。

しかしだとすると、上の考えに足りない要素は何なのか?


死後に決まる価値とは?

「人生の価値が死後に残った年数で決まる」というと、おそらく多くの人は次のように反論するだろう。

もし死後の年数でのみ価値が一元的に決まるのだとしたら、本人は自分の価値を一生実感することができないことになる。しかし、人生の価値というのものは、少なくとも当人に実感可能でなければならない。

仮に死後名前が長く残ったとして、(たとえばゴッホのような)生前ほとんど評価されなかった人物に対して上の考えは何の慰めにもならない、というものだ。死んだら終わりなのに死んだあとのことを持ち出すのはおかしいということである。 

ここには二つの世界観が対立している。

まず「死んだら終わり」というのは前提とした上で、「だから生きてるうちにどれだけ楽しんだかが大事だ」という立場がひとつ。

そしてもう一つは、「死んだら終わり」ということは認めつつも、やはり「その後の影響力がどれだけ持続するかが大事」という立場だ。 なぜだか知らないが、幼少期の僕は後者の世界観を持っていたようだ。

しかし実際のところ、その価値観を受け入れたとして、自分に「何らかの歴史的な偉業を達成したい」という目標があったかと言うとどうも怪しい。それ以外にこういう世界観を持つ理由は何だろうか?


観測できなくとも価値が実在するということ

「死んだ後に何年名前が残るかで人生の価値が決まる」という立場は一つの前提を置いている。それは「ある人の人生は、死んだ後にひとつの作品(鑑賞品)になる」という発想だ。

だから、これまで述べてきた発想をもう少し穏当にすると、「人生の価値は、作品という観点で読み返したときに面白い内容を持つかによって決まる」という立場に着地する。

これは一見「生きてるうちにどれだけ楽しんだかで決まる」という考えと似ているが、イコールではない。逆に当人にとってどれだけ悲惨な人生であっても、「客観的に見て面白い内容を持つか」の方が重要だからだ。死後に他人が面白いと思うか、面白いと思う人数が何人か、に価値を置くとはそういうことである(たとえ何人なのか知ることはできなかったとしても)

これは、「価値というものは本人の主観によって決まる」という普通の考えを前提にしていない。むしろ、人間の価値は(たとえ観測可能でなくとも)我々の認識を離れて客観的に実在するという考えに近い。いや「客観的」と言って語弊があるなら、「多数の人間の主観の集合」によって作られると言っても良い。

 

「ある人が死んで n 年経ったときに m 人がその人を覚えているか」。おそらくこの情報は誰一人知ることができない情報だ。しかし、その情報が何を意味するのかは我々には理解できるし、少なくとも「天国」や「死後の世界」に比べると、「ちゃんと存在する概念」だと思うだろう

ということはもちろん、それを使って計算された人間の価値指標も、(実際誰も知ることは不可能だが)やはりちゃんと存在するといって良いのではないか。

 

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死後の世界を信じることはなかったとしても、「死後自分を覚えている人間の数」という情報は、あきらかに存在する*1。神の存在を信じない人間にも、「自分が決して知ることができない情報」を一種の超越者と見なすことによる信仰は可能であり、それはきっと可能な宗教なのだろうと思う。

ゴッホ

ゴッホ

 

*1:これはもちろん、「死後自分を覚えている人間が確実に存在する」という意味ではない。たとえ0人であったとしても、「0人であるという情報」は確実に存在するということである。